1982
DOI: 10.1086/resv3n1ms41625298
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Symbolic blood: cloths for excised women

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“…,それが 美術館等の「制度」によって定められた場合に Art と定 義しうるものになるにすぎない,という批判的議論もな されている (Gell, 1999:187- (Ross et al, 1998)など,複数のアプローチから研究が なされている。あるいは器物そのものを対象とした研究 ではなく, 民族誌で儀礼や社会制度を取り上げるなかで, そこで用いられるモノの役割を,その民族の日常生活や 宗教観念などと結びつけて分析する研究も数多くなされ ている(e.g. Griaule et Diéterlen, 1965) 。 こうした「伝統的」アフリカン・アートにかんする豊 富な研究蓄積の一方で,同時代のアフリカのアート/ アーティストの文化人類学的研究は限られている。1980 年代以降,アフリカの同時代アートの大規模な展覧会が 欧米を中心に開催されるにともない,その来歴や作品 の紹介がさかんになされるようになった (CGP, MNAM, 1989;Vogel ed., 1991;Fall and Pivin eds., 2002) Smith, 1982) , ニャマと結びつきの深い血が放出される割礼儀礼や狩人 の狩猟,その秘密結社 4) (donso-ton)の儀礼などで重要 な役割を果たしてきた(図1) (Gardi ed., 2003:95;Brett-Smith, 1982;Duponchel, 2004) 。また,モチーフに特定の 意味をもたせることで,バマナンの歴史やそこから得ら れる「教訓」が描き込まれている歴史語りのボゴランも 存在する (Keita et Albaret, 1991: 38-42) 。 このように,バマナンの宗教・社会的観念と密接な関 係をもち,それゆえにバマナンの社会に深く埋め込まれ てきたボゴランであったが,20 世紀初頭に入ると,大 量生産の安価なプリント布の流入や制作者たちの生活形 態の変化により,その技法の継承が危ぶまれるように なった (Rovine, 2001: 2) 。しかし,1990 年代以降には 「ボゴラン・リバイバル」とも呼ばれるボゴランの再評 価がおこり,ボゴラン布は洋服 5) やインテリア布,ブッ クカバーなどの日用品として国内外の人びとに用いら れ,外国人観光客に人気の高い土産物のひとつにもなっ た (Rovine, 1997) 。 近年ではボゴランは,バマナンに限らずマリの他のエ スニック・グループによっても,アートとして,また土 産物として男女問わず製作・使用されるようになってい る (Rovine, 1997: 43-46 (Ebong, 1991: 198-199) 。かれの思想によれば,アートは「政治 とともに国家の経済的成長に向けて互いを補完するも の」であり(M' Bengue, 1973: 10) ,アーティストはそ の政治的方針,思想を具現化する「親愛なる子どもた ち(chers enfants) 」 (Harney, 2004: 52) ,その国を内外に アピールする「大使」 (Ebong, 1991: 204)であった。劇 場,美術館,芸術学校の建設,伝統的アートの収集・保 存,ワークショップの開設,世界各国でのセネガル人 アーティストの巡回展などに費やすため文化省に配分さ れる額は,国家予算の 25-30% に及んだという (Senghor, 1989;Harney, 2004: 49 (Keita, 1961;Hazard, 1969) 。独立直後の 1961 年からは,農村経 済の発展,手工業,教育,保健の近代化などに重点を置 く5ヵ年計画が実行された (Diarrah, 1991: 41-46) 。 また,政府は全国レベルの施策に加えて,各種の協同 組合や相互扶助組織を村・郡・県・州の各レベルで結成 させることで, 「下からの」経済的・社会的基盤の構築 をめざした (Diarrah, 1991: 44) 。こうした組織のなかで も,村レベルで組織された相互扶助組織 ton(トン)は, 独立後のマリの土着的社会主義政策の特徴が顕著にあら われたものであろう (Diarrah, 1986: 71-80) (Vogel, 1988: 14) 。これを受けてジェルも アートの可能な定義として,以下の3つを挙げている。しか しかれ自身は3つ目(制度が定めるアート)だけを受容可能 としている。その定義とは,アートとは,1)西洋美学的見 地からみて優れているとされるもの,その美的価値が誰の目 からみてもすぐにわかると信じられているもの,2)美術史 art-history によって解釈され,理解されるもの,3)制度によ るもの,つまり,美術館等の制度が定めたもの (Gell, 1999: 187-188 Groupe Bogolan Kasobane is a Malian artists group who used traditional mud-dying techniques bogolan in their art works. Traditional bogolan have faced the crisis of disappearance when Kasobane began their carrier as contemporary art...…”
unclassified
“…,それが 美術館等の「制度」によって定められた場合に Art と定 義しうるものになるにすぎない,という批判的議論もな されている (Gell, 1999:187- (Ross et al, 1998)など,複数のアプローチから研究が なされている。あるいは器物そのものを対象とした研究 ではなく, 民族誌で儀礼や社会制度を取り上げるなかで, そこで用いられるモノの役割を,その民族の日常生活や 宗教観念などと結びつけて分析する研究も数多くなされ ている(e.g. Griaule et Diéterlen, 1965) 。 こうした「伝統的」アフリカン・アートにかんする豊 富な研究蓄積の一方で,同時代のアフリカのアート/ アーティストの文化人類学的研究は限られている。1980 年代以降,アフリカの同時代アートの大規模な展覧会が 欧米を中心に開催されるにともない,その来歴や作品 の紹介がさかんになされるようになった (CGP, MNAM, 1989;Vogel ed., 1991;Fall and Pivin eds., 2002) Smith, 1982) , ニャマと結びつきの深い血が放出される割礼儀礼や狩人 の狩猟,その秘密結社 4) (donso-ton)の儀礼などで重要 な役割を果たしてきた(図1) (Gardi ed., 2003:95;Brett-Smith, 1982;Duponchel, 2004) 。また,モチーフに特定の 意味をもたせることで,バマナンの歴史やそこから得ら れる「教訓」が描き込まれている歴史語りのボゴランも 存在する (Keita et Albaret, 1991: 38-42) 。 このように,バマナンの宗教・社会的観念と密接な関 係をもち,それゆえにバマナンの社会に深く埋め込まれ てきたボゴランであったが,20 世紀初頭に入ると,大 量生産の安価なプリント布の流入や制作者たちの生活形 態の変化により,その技法の継承が危ぶまれるように なった (Rovine, 2001: 2) 。しかし,1990 年代以降には 「ボゴラン・リバイバル」とも呼ばれるボゴランの再評 価がおこり,ボゴラン布は洋服 5) やインテリア布,ブッ クカバーなどの日用品として国内外の人びとに用いら れ,外国人観光客に人気の高い土産物のひとつにもなっ た (Rovine, 1997) 。 近年ではボゴランは,バマナンに限らずマリの他のエ スニック・グループによっても,アートとして,また土 産物として男女問わず製作・使用されるようになってい る (Rovine, 1997: 43-46 (Ebong, 1991: 198-199) 。かれの思想によれば,アートは「政治 とともに国家の経済的成長に向けて互いを補完するも の」であり(M' Bengue, 1973: 10) ,アーティストはそ の政治的方針,思想を具現化する「親愛なる子どもた ち(chers enfants) 」 (Harney, 2004: 52) ,その国を内外に アピールする「大使」 (Ebong, 1991: 204)であった。劇 場,美術館,芸術学校の建設,伝統的アートの収集・保 存,ワークショップの開設,世界各国でのセネガル人 アーティストの巡回展などに費やすため文化省に配分さ れる額は,国家予算の 25-30% に及んだという (Senghor, 1989;Harney, 2004: 49 (Keita, 1961;Hazard, 1969) 。独立直後の 1961 年からは,農村経 済の発展,手工業,教育,保健の近代化などに重点を置 く5ヵ年計画が実行された (Diarrah, 1991: 41-46) 。 また,政府は全国レベルの施策に加えて,各種の協同 組合や相互扶助組織を村・郡・県・州の各レベルで結成 させることで, 「下からの」経済的・社会的基盤の構築 をめざした (Diarrah, 1991: 44) 。こうした組織のなかで も,村レベルで組織された相互扶助組織 ton(トン)は, 独立後のマリの土着的社会主義政策の特徴が顕著にあら われたものであろう (Diarrah, 1986: 71-80) (Vogel, 1988: 14) 。これを受けてジェルも アートの可能な定義として,以下の3つを挙げている。しか しかれ自身は3つ目(制度が定めるアート)だけを受容可能 としている。その定義とは,アートとは,1)西洋美学的見 地からみて優れているとされるもの,その美的価値が誰の目 からみてもすぐにわかると信じられているもの,2)美術史 art-history によって解釈され,理解されるもの,3)制度によ るもの,つまり,美術館等の制度が定めたもの (Gell, 1999: 187-188 Groupe Bogolan Kasobane is a Malian artists group who used traditional mud-dying techniques bogolan in their art works. Traditional bogolan have faced the crisis of disappearance when Kasobane began their carrier as contemporary art...…”
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